サーバントリーダーシップ

人を活かすサーバント・リーダーシップの力 Vol.6 日本が生んだ稀代のサーバントリーダー

■二十世紀の三大聖人を知っていますか?  

一人はガンジー。もう一人はシュバイツァー。二人ともだれもが知る歴史上の偉大なサーバントリーダーです。
そして、もう一人は、なんと日本人なのです。その名は賀川豊彦(1888~1960)。
実はノーベル平和賞三回、ノーベル文学賞二回、計五回もノーベル賞にノミネート(推奨)されています。
社会改良家であり、生活協同組合を作った人でもあります。

私は賀川こそが、日本が生んだ代表的なサーバントリーダーだと思っています。
北欧で、特に戦前から戦後にかけて高く評価され、
シュバイツァー、ガンジーとともに「二十世紀の三大聖人」と称えられたのです。
なぜ、これほどすごい人が現代においてほとんど知られていないのでしょうか。
それは、賀川があまりに多岐にわたって活躍したため、多くの人にとっては理解を超える存在だったからだと思います。
また、賀川は社会的問題の解決に取り組むときに、目の前の現象に捉われるのではなく、社会の仕組みそのものを変えようとしました。

現象の解決に従事している人にとっては、賀川の行動は理解を超えたものだったと思われます。
賀川豊彦の人生を紹介することで、サーバントリーダーについて皆さんと一緒に考えたいと思います。

■賀川豊彦の歩み 

1888(明治21)年に神戸市に生まれた賀川は、幼くして両親を失い、五歳の時に徳島の本家に引き取られます。
家族の温もりのない孤独な幼少時代を過ごします。また、不幸な生い立ちが原因で、子どもや仲間からもいじめられたのです。

そんな豊彦少年を慰めたのは、徳島の豊かな自然でした。賀川は自然に深い関心を寄せ、後年『宇宙の目的』という本を書きます。
不遇の少年時代を過ごしていた賀川は、徳島中学時代に二人のアメリカ人宣教師ローガンとマヤスと出会います。
この二人の師との出会いが、その後の賀川の人生を方向づけました。
賀川は伝道者になることを決意し、1905年、明治学院高等部神学科に入学し、その後、神戸神学校に転校します。
ところが肺結核で吐血し、4か月の入院、臨死体験で、2、3年の余命を宣告されます。
賀川は「残された人生をすべて神と隣人のために捧げよう」と決心します。

1909年、賀川は神戸の新川に移り住みます。当時の新川は西日本最大といわれるスラム(貧民窟)でした。
狭い土地に約2000戸、7500人余りの貧民がひしめきあって住んでいました。
二畳の長屋に五、六人もが密集して住んでおり、トイレは20軒に一つしかないという有り様でした。
当時の社会の最底辺の貧民たちの生活はすさまじいものでした。極度の貧困、病気、犯罪、喧嘩、賭博、買売春、もらい子殺し……。

賀川はあまりの現実に打ちのめされながらも、貧しい人を助けることを使命とし、自分の残りの人生をかけようとしました。
病人の介護、無料宿泊、無料葬式、簡易食堂、生活資金援助、職業紹介、
生活相談、日曜学校、路傍伝道などの活動に精力的に取り組みました。
もちろん、富も名声もない一青年にできることは限られています。
しかし、賀川の捨て身の取り組みが人の心を動かし、多くの協力者を呼び寄せることになったのです。
余命宣告を受けていた賀川は結果的に生かされ、この取り組みは13年半も続きました。

ここまでの賀川の人生の前半を見てもわかるように、賀川は目の前の困っている人に親切にする、ただの優しい人ではないのです。
サーバントリーダーも「人に親切にする優しい人」と誤解されることが多いのですが、そうではありません。
サーバントリーダーはあくまでリーダーなのです。
 

■サーバントリーダーの二つの要素

サーバントリーダーには大きく分けて二つの要素があります。
一つは「本来はこうあるべきだ」「もっとこんな社会を作りたい」という大義のある理想やビジョンを描くことです。
賀川はスラムの状況に、「人がこんな生活をしていることはおかしい」
「もっと人は幸せに生きるべきだ」「なんとかしてあげたい」という理想を描いたのだと思います。 

二つ目は、それを実現するために人を巻き込み、その人たちが活躍できるように奉仕することです。
多くの場合、理想やビジョンは一人では実現できないからです。
賀川の場合も、自分一人では何も成し遂げることはできなかったはずです。
多くの協力者を得ることができたのは、賀川の人間性でしょう。
人に奉仕する姿、真摯な姿が周りの人の心を打ったのだと思います。
 

■慈善から防貧へ

13年半に及ぶスラムでの活動の2年間、賀川はプリンストン大学およびプリンストン神学校で勉強するために米国に留学しています。
賀川はこの留学中に、その後の考え方に大きな影響を与える二つの出来事に遭遇しています。

一つは、ニューヨークで見た数万人の労働者のデモ行進です。労働者が自らの意思を表現する姿を見て衝撃を受けます。 
もう一つは、ユタ州で日本人会の書記をした時に、日本人の農業賃労働者の組合を作り、賃上げ交渉に成功したことです。
これらの出来事を通じて、賀川の活動は慈善から防貧に移行していきます。慈善とは、困った人に手を差し伸べる行動です。
賀川もそれまでは貧しい人や困った人を救う慈善活動をしてきたのですが、限界を感じたのでしょう。
そういう境遇になる人をいかに減らすかというのが防貧の思想なのです。
目の前の困っている人をただ助けるだけでは、物事は解決しないことを新川の活動を通じて賀川は学んだのです。
 

■偉大なサーバントリーダー

サーバントリーダーは、ビジョンを実現するために、物事を全体として捉えます。
なぜなら、物事は全体として存在し、さまざまな現象を引き起こしているからです。
全体として捉えるから、自分もその中に存在し生かされていることを理解できるのです。
サーバントであることができるのは、自分が全体とつながっており、その中で生かされていることを感じているからです。
賀川は少年時代に徳島の豊かな自然の中で、それを感じていたのだと思います。 

帰国後、賀川は防貧のためのさまざまな活動を始めます。1917年、スラムに無料診療所を作ります。
18年、防貧の手段として、労働組合運動を始めます。
友愛会関西労働同盟会を結成し、理事長になります。労働運動の関西一円の指導者となりました。
19年、消費組合運動を起こし、大阪に購買組合共益社を設立します。
20年には自伝的小説『死線を越えて』を出版します。これは百万部以上の大ベストセラーとなります。
二十三か国語に翻訳され、印税は十万円にもなりました。これは現在の価値なら、なんと約十億円です。
賀川はこれを全て防貧活動に投じていくのです。23年に関東大震災が起きると、救援活動のために活動拠点を東京に移します。

賀川のような偉大なサーバントリーダーが歴史の中で忘れられているのは大変残念なことです。
是非、多くの人に知っていただき、自らのサーバント・リーダーシップについて考えるきっかけにしていただければと願っております。

 

 

更新日: 2012年 10月 05日

一覧へ戻る